情けは人の為ならず

友人が弱ってたら手を貸したいし、頑張ってたら応援したい。自ら首を突っ込んだり、本人のためにならんことはしないけど。助けを求められたとき、または必要だろうと感じたとき、自分にできることがあるならやりたい。それは青いころから変わらない。そして「それをきっかけに関係が壊れること」が、この歳まで繰り返しぶち当った壁。


「手料理を振舞われるなら手土産を持って訪ねる」が当然だった関係があるとする。あるとき、諸事情により「困ったときは力になる」と伝えた。相手の気持ちに余裕がないうちは何も求めない。気付けば、食事を振舞うのは当然で、内容にケチまで付けられるような関係に変化していた。


上記はあまり関係ない例を挙げたが、こんな事態に多々直面する。いつの間にか最低限の礼節を感じられなくなる。そのとき、何か大切なものを失った気がする。大切ならやるべきことをやらずに呆れ諦め遠ざかるのは自分こそ不義理だと、思いを正直に打ち明ける。すると相手はバツが悪く距離ができる。大切なものは二度と元には戻らない。それでも初めから手を貸さないという選択肢は自分にはない。


バカみたいに同じ失敗を繰り返し、納得のいく答えや対応が見出せないかと読み調べなどもしたが、「情けは人の為ならず」「善意とは見返りを求めない心」といった言葉を必ずみかける。


「情けは人の為ならず」=「情けは巡って自分に返ってくる」。この考え大嫌いだ。天国に至るための善行。己に巡り巡るための善行。鏡の法則因果律。全ては自分のためにって最も利己的な思考じゃなかろうか。おらを動かすものは「この人が辛いと自分も辛い」だ。目の前にある傷を見ずに、いつか自分が受ける恩恵に思いを馳せている顔を想像するとぞっとしてしまう。利己って意味では大差はないのかもしらんが…。


震災の頃も考えた。例えば、我が家で被災者を受け入れる。個人の空間に他人がいるということはそれだけでストレスだ。それを埋めるのは互いの配慮しかない。その人に配慮が欠落していたら? 例えば電気を湯水のように使う、待遇にケチをつける、私室を漁る、家庭内のことを近所に吹聴する。それでも笑って受け入れるの? 見返りを求めないってそういうことなんでしょ。とてもじゃないが無理。


自分の倫理と他人の倫理は違う。その差にいつも苦しむ。答えはいつ見つかるだろうか。皆はもう持ってるだろうか。




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