多様性

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ずっと知りたかった答えが開けて繋がっていく。思考が壁にぶつかったときは原点に帰る。遡っていくと、私たちは何のために在るのかにたどり着く。思いつくのは種の存続のため。といっても人類はこの星の癌だと思っているし、種の存続に関わるつもりもない…ここでいつも終わっていた。

 

でも三十歳を過ぎ、植物に関わり、作物を育て、今まで読み聞きしたものを合わせていくうちに光が射した。種の存続に関わらないものなどないのだ。全てのは個は予測できない未来に向けての可能性だ。先々なにが起き、なにが残るかなど分からないから可能性は多いほうがいい。これを個性とか多様性というんだ。「みんなちがって、みんないい」というのは、道徳的な言葉だと思っていた。管理教育最盛期に育ち「違っていい」なんて言われたこともない、一糸乱れぬ動作、容姿、思考を求められた。でもみんな違わないといけないんだ。虐げられた者が生き延びるかもしれないのだから。

 

そうすると、正解も不正解もなくなる。あなたもわたしも一理あることになる。清く正しくじゃないが、正しいと思って生きてきた故このことは衝撃だった。例えば環境汚染、動物虐待、性犯罪、それらは正しくないと断言する。それが間違いるなら納得できる異議があるはず。その答えが見つからないうちは自分の思いは正しい。そういう基準で生きてきた。異議があるなら、なぜなのか教えてもらおうとした。

 

これも最近知ったのだが、「なぜ?」「どうして?」の言葉には非難の意味が含まれるらしい。どうりで嫌な顔をされ続けてきた。では純粋に何かを知りたいとき何と発すれば良いのだろう。自分の考えを述べる、それは恥ずかしいことではないから。異議があれば聞きたい、新しい視野が開けるかもしれないから。納得できる異議がなければ自分の思いは変わらない。そしてそれを、まだ知らない人に教えてあげなくてはいけないとさえ思っていた。無知は罪だから。一人でも多くの人が気づくことで救われるものがあると思っていたから。

 

そうじゃなかった。正誤という概念は不要だった。個は全ての可能性なのだから正誤や優劣なんてものはないのだ。相反する人は無知なのだと思っていた。それなりに皆、それぞれの正義を背負ってたとは。個は何も裁く必要がない。自分だけが思うように生をまっとうするだけでいい。こんなこと当たり前に知っている人の方が多いのかな。もっと若いうちに知っていればどれだけ生きやすかったろう。でも遠回りして得た感動もあるのかもしれない。

 

自分自身は種のために生きたことはなかった。これからもそうだ。人が滅んでも星を残したい。そんなマイノリティ思考さえ、種の存続のの可能性のひとつなのだ。そこには交わらないと思っていたのに、実はその中で踊っていたなんて。笑い話だ。そう、生きていると度々遭遇するこの滑稽な瞬間が、この世に産まれ生きる醍醐味じゃないか。