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自分を守るために、わたしを犠牲にする人は要らない

あきらめるなんて死ぬまでないから 自分らしい孤独

今回起きたことを無駄にしないためにも、いつか家族を持つためにも、過去の振り返りを含めまとめておきたい。


この絶妙なタイミングで、こんな記事を読んだ。引用する必要がないほど、タイトルが全てを表している。気持ちを代弁してくれたようで嬉しかった。

相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110901/


和菓子屋と旅館、両方に共通していたのは、「自分が良く見られたい」という心を徹底的に排除しているということだった。

私はこの番組を見ながら、母のことを考えていた。私の母は、他人に対して気を遣い、善良に振舞う人だったが、それは他人から悪く思われたくないからであり、他人への思いやりからのことではなかった。母は、他人を受け入れていたわけではない。むしろ、他人を拒絶していたと言ってもいいだろう。母の気遣いや善良さは、他人から自分を守る「鎧」だった。母は「鎧」を着て他人に接していた。

表面上は同じように細やかな気遣いをしているようでも、相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣いとは、本質が全然違うよなぁ、と、番組を見ながら思った。

他人に対して気を遣って丁寧に接する母と、それができない私の話
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20100827/


母は、心からの優しさや思いやりで他人に接しているというよりは、他人に悪口を言われたり、それによって自分が傷付くことを恐れているという感じだ。なので、母の他人に対する気遣いや親切や善良さというのは、他人から攻撃されないための鎧なのだろう。

自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110825/


母は、家の外の人に対しては親切に振舞ったが、私に対しては親切とは言えなかった。他人の評価目線から身を守るための「鎧」として気を遣っていた母にとって、家の中ではその「鎧」を着る必要はなかったのだ。

他人に対して気を遣ってしまうと言えば聞こえは良いが、そういう人は、自分がほぼ完全に支配下に置いておける人間に対しては、逆にほとんど気を遣わず、まるで自分に属する「モノ」のように、他人から良く思われるための道具にしてしまうという暗黒面があると思う。


親子の話ではないが、わたしも同じことをずっと書いてきた。

他所様の目という滑稽
http://d.hatena.ne.jp/manabitch/20070903/


私が嫌悪していることは基本的にはいつでも同じことだ。「自分像のために振舞う」こと。

私の周りに百人の人がいれば、百通りの私像があるわけで、それでいいじゃねぇか。大体、自分でアピールする自分の性質って大抵本質とずれてるし。さばさばした人は自称さばさば系って言いませんから!ノンケは自称ノンケって言いませんから! 例えば、「私ってばこんな人なの!」と延々自己を主張しつづけ死んだのち。私という人間は、私を知る人々の記憶の中にしか存在しないというのに。葬儀の席で私の友人であった人が、もしくは勝手に友人だと思い込んでいる人物が悪気無く歪められてしまった記憶の中の私を語る。その台詞は私自身が主張してきた日々がまったく無に返るほど不本意なもので、しかし人の記憶なんてものは得てして本人にのみ都合よく曖昧なもので、そして死後の私はそこにしか存在できず。生涯かけて貫いた私のイメージが仮にあったとして、それを一瞬で壊された瞬間などを想像するとあまりの滑稽さに愉快でたまらなくなる。それでいい。ブチ壊しちまえ。反論できる口はもう無い。自己主張なんてその程度のくだらないもん。

自己顕示欲
http://d.hatena.ne.jp/manabitch/20080803/


嫌いなのは、自分の売り出したいイメージを遠まわしにアピールされることだ。自己顕示欲が強いという事柄が苦手だ。印象っていうのは他人が持つものであって、自分で大売出ししないもんだ。自己像に必死になる前に、カラッポな中身を埋めようぜ。

出口
http://d.hatena.ne.jp/manabitch/20090213/


正面を向いて、誠実に誰かを思うとき、誰かは私ではなく自分自身を思っている。そして、私を思う人はいない。自分で自分を大切にしなきゃ、誰もしてくれやしないんだ。毎回思い知って、また繰り返す。なぜ攻撃対象が私なのか。なぜ守るべきは自分なのか。

もやもや
http://d.hatena.ne.jp/manabitch/20090129/


いや違う問題はそこじゃない。それを知らない人じゃなく、知っている人の話だ。無意識に私を盾とし、それに甘んじることだ。また繰り返すのだろうか。また、一番近しい人の自己顕示欲と戦い、そして負けるのだろうか。どうしても、私の存在がこれに勝つことができない。はなから勝てるはずのないものだと、諦めるべきなのか。


こうして並べてみると、わたしはもうずっと昔からこの自己顕示欲に苦しめられているのが分かる。過去においても、一人を除けば稚拙な関係しか築けなかったのはこれに因る。


いつだって、その瞬間に分かってしまう。咄嗟に他者を気遣ったのか、咄嗟に自分像を守ったのか、その差はいつだってはっきりと分かる。前者は尊敬に、後者は軽蔑に。誰かを思いやるためなら、一番身近なわたしがいくら犠牲になろうと構わない。自分自身を守るために、わたしを犠牲にされるのはまっぴらごめんだ。


自己顕示欲のため、もっとも身近な人が犠牲になる。


これだけは、二度と繰り返したくない。


こういったことは、よくあることで、特別なことじゃないんだろう。自分像から解き放たれた人のほうが少ないのかもしれない。だから良いとか悪いとかじゃない。単にわたしには無理だ。裏も表も無い。素顔なんて誰にでも見せる。人にどう思われようが、どう言われようが構わない。自分像なんかどんだけ壊したって、守るべき人を守りたい。自己顕示なんてくそくらえ。そうやって生きてきたわたしには無理だ。自分が犠牲になった瞬間が生々しくみえてしまう。


わたしに惚れていると、どこでも誰にでも大声で言える人がいい。どれだけ想われようと、二人きりの閉じた空間で、愛でられ、優しくされ、熱っぽい目を向けられ、もうそんなのたくさん。誰の前でも堂々とわたしに惚れておけと言いたい。


自分を守るために、わたしの心を犠牲にする人は要らない。
自分が傷つくのを恐れるあまり、わたしの傷を見て見ぬ振りをする人は要らない。
外面を取り繕うために、わたしに我慢を強いる人は要らない。
わたしの存在を隠そうとする人は要らない。
わたしのために、自分の闇と向き合えない人は要らない。
わたしのために、ほんとうの強さを持とうとしない人は要らない。
この苦しみを解かろうとしない人は要らない。
そんなに自分像が大事なら、自分と恋愛していればいい。



これは、今回のことじゃなくて、これからたくさんの人と出会う、なんだかんだ弱い自分への宣言。今度こそ同じ過ちは繰り返さぬ!