冷たい人間

震災からもうすぐ一ヶ月経つ。ここ最近はテレビも不愉快でみたくなかったし、人の声もあまり聞きたくなかった。ただ、おらは冷たい人間なんだろうと、もしくは思考が一般的ではないんだろうと、改めて知ることになった。多くの被害、多くの悲しみ、心を痛め、無力感に苛まれ、自粛したり励ましたり労わったり、そいうものを見聞きするたび、胸がざわざわしてしかたなかった。


ひとつの事実として、冷たい人間でいい。誰かに向かって取り繕う必要もない。おらの中にはいつも「なぜ今なんだ」、その想いがあった。日本人の無知のために、日本人の傲慢のために、日本人の加担のために、死んでしまったり、障害をもったり、犯されたり、飢えたり、悲惨な生活を強いられている人が、生き物が世界中にたくさんいる。自分が無力で情けなくて恥ずかしくて悔しくて悔しくてどうしようもなくて、せめてなにかできることをと模索しながら、それでもよくわからなくて、たくさん嫌われて、自分と向き合ったり折り合いつける方法を手探りで人生の半分を生きてきた。おらの言葉を鼻で笑ってきた人たちが、今おらより多くの涙を流し心を痛めている。「なにが違うんだ? 」災害で家族を失った人、辛い生活を強いられている人、その人たちのために心を痛められる。世界には、それすら日常の人たちが大勢いる。アメリカ人のせいで。日本人のせいで。人だけじゃない、おらたちのせいで、絶滅する生き物。なにが違うの、どうして今だけこんなに悲しんでいるの。


たくさんの人が辛い思いをしているときに、こんなふうにしか考えられない自分はほんとうに冷たい人間なんだと、毎回思わされるのが嫌で、何も聞きたくなかった。「人の思考とはそういうものではない」と、「もっと感情に支配されるものだ」とパートナーにいわれた。「より身近な人に心を動かされるようにできている」と。悩んでいるおらに「ただ今回だけじゃなく、いつも自然を頂点として考える、公平、優先順位に重きをおく考え方をしているから、そういう思考も別に不思議ではない」といってくれた。よくわからない。感情に任せて悲しんだり、怒ったりということができない。自分が傷ついたことに気づくことすら何ヶ月も思考を租借しなくてはならない。そして、それが理にかなっていなくてはならない。自分の秩序に則った思考しかできない。秩序を超えた思考はできない。感情が欠落しているのかなんなのか分からないが、感情に任せるということができない。いつだって白と黒しかない。「人それぞれ」も、「それはそれ、これはこれ」もない。黒は、「加害」「人災」「グレー」「無関心」、白は「その他」だ。


今回の震災について、自然災害と人災をあまりに同列に語りすぎる。そも自然の力は抗いがたいものだ。地震津波、台風、竜巻、日照り、流行り病、生き物は昔からそれらと向き合って生きてきた。人間はほかに天敵はいない。でも原発は違う。地震があったから、津波を想定していなかったから、原発事故が起きたわけではない。地球に原発があったことが問題だ。「フクシマ」の事故は、地震によって引き起こされ、日本人が被害にあった。そうじゃない。「フクシマ」の事故は、日本人によって引き越こされ、この星に生きるすべての動植物に被害をもたらしたのだ。そこを履き違えちゃいけない。


人災は、防ぐことができたのだ。悔やんでも悔やみきれない。おらは、原発についてできる限りのことをしてきたとはいえない。常に反対派ではあった。署名くらいはしてきた。電力の消費も抑えてきた。だからなんだというのか。おらは原発のことをプルトニウムが他国で悪用されていること、六ヶ所村が被害にあっていること、無に返すことのできない不の遺産が蓄積されていくこと、震災時の被害が計り知れないこと、そこまでしか知らなかった。既にそこで働く人々を犠牲にして成り立っていたなんて知らなかった。自国も他国も知ったことじゃない。大勢の命もひとりの命も変わらない。犠牲を伴う幸せじゃだめなんだよ。今回のことで米軍撤退を掲げる人も減るのではないかと、どこかで見聞きした。同じ思考だ。原発のある地域と従業員が犠牲になればいい。基地のある地域と攻め入られる国が犠牲になればいい。有事の際は、大々的に嘆くから。それじゃいけない。


地震対策、買占め、自粛、風評被害、節電、景気、募金、ボランティア、みなそれぞれ思う運動をしたらいい。それらに良いも悪いもない。ただ、それとまったく違う次元で、大前提として、すべての人が持っていなければならないものがある。核は、原発はいらない、作らせない、稼動させない。そして、ほかのエネルギーを手に入れてまた湯水のように使ったりしない。資源とは、この星に生きるすべての生き物のものだ。金という紙切れをより多く持っている人間が、使い放題にしていいものじゃない。原発を停止しても中東を攻撃し続けるアメリカのようになっては意味がない。排出権取引なんて概念は狂っていると。


日本がプルトニウムをつくっているために亡くなった方はたくさんいたんじゃないか。日本が米兵を支援したために亡くなった方は。日本人が食す肉という名の家畜の餌をつくりながら、自身の食事ができずに亡くなった方は。日本人に体を買われている少女たちは。おらたちが引き起こす温暖化によって、我が子を食すまでに追い詰められている氷上の生き物たちは。


国とは、政治とは、生活とはどうあるべきか、今を機に考え、見直していきたい。確かに電力会社は許されないことをしたが、それがまかり通る政治を許してきたのは国民ひとりひとり。また同じことが起こってしまう土壌をみなで作り上げ、何かあってから嘆き、募金をするんじゃいけない。同じ過ちを繰り返さないために何ができるか。それが今、被害の軽い自分にできることだ。何年も前から、おらたちは動くべきだった。だけど今からでも動けばいい。屁理屈でも感情が欠けているのでもかまわない。こういう考え方しかできない。国民が被害にあったからではなく、自分が被害にあいそうだからではなく、もっと大きな人災のために何かを変えていきたい。より身近なものに多くの心をさけないことについては、欠落した部分なんだと思うほかない。人災は人によって引き起こされる。そこから学ぶことも、同じ過ちを繰り返さないこともおらたちにはできる。


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