だから私はきらわれる

人との関わりについて小うるさく思うことあれこれ。


ひとつ。年が明けると考えることがある。私はクリスマスやバレンタイン商戦というものを嫌悪しているのと同様に、年始の挨拶についても、いずれ年賀葉書という形をとらなくなるだろう、という前置き付きで。この何十枚の年賀葉書の送り主の中に、私に関心がある人はどれくらいいるんだろう。友人、親族に関わらず、まず、結婚した途端に新年の挨拶をする仲になるというのが不可解だ。挨拶とは、所帯を持ったからするものではなく、個人的にするものであって、それまでの月日に年始の挨拶を交わしていないなら、今後もそれで構わないのに。その年に私と一切コミュニケーションをとっていない人についても不可解だ。「最近どうしているか、元気にしているか」そんな言葉を添えられても、ここを開けば私の近況や思うことまで、包み隠さず載っている。一分もあれば、直近のことなど分かるわけで。365日の間にその一分が捻出できないということは、そも私の近況なぞに興味がないということだ。となれば新年の挨拶という形で本当にやりたいことは、自分の近況報告だ。何の興味もない人に自分の近況を知らせたい。この心理が不可解。私は近況を知らせたい相手ならば、相手の近況も知りたいから。日々忙しく時間もないのかもしれないが、「結婚しました」「出産しました」「名前が決まりました」「帰省しました」「忘新年会のお知らせ」、などの一斉メールや葉書をもらうより、私だけに宛てられたただひと言の「イイネ!」「がんばれ」の方が、ずっと心に沁みる。一斉メールは大抵、律儀に返信しても返事がこない。私は友人のDMやメールマガジンを購読しているわけではないのだ。昨年末は休職や手術、腸炎など重なって寝たきりだったが、いただいた励ましや労りの言葉はとてもありがたかった。そして、そんな中にくる「年賀状を送りたいので住所を教えてください」の一斉メールはとても寒々しかった。ああこんな気持ちをもつくらいなら年賀葉書なんていらないのにと。


ふたつ。元恋人論。昨年はたくさんこの話題がでたので、思うところを残しておきたい。一番に思うのは、別れたばかりの元恋人は、絶対に友人ではないということだ。別れたのち、互いに他の恋愛をしながら再び友人としての関係を築いていくというのはあるだろう。でも、別れた直後の元恋人は「互いに所有欲が消えない元恋人」であって、決して「友人」ではない。一番の優しさとは、互いに心身ともに自立すること、そのための協力をすることだ。友人になりたければ、焦らず、自立した後にゆっくり友人としてやりなおせばいい、たったそれだけのことだ。けれども、意識的なのか、無意識なのか、自立を妨げる行為、「一度所有したからには、いつまでも自分のもの」「忘れさせる時間の猶予を与えない」というマーキング行為を驚くほどよくみかける。同じような年齢でも、ヘテロの既婚者が元恋人とずるずる連絡を取ったり、会ったりという話を個人的にはまったく聞かない。自分の周りでいえば、あまりそういうことはないと思う。誰かと一緒に新しい生活を始めるということは、そういうものだ。籍うんぬんとか、性別うんぬんの話ではない。けじめの話だ。両親が自分を生んだ後も元恋人を友人と称してつるんでいたらげんなりするだろう。それと同じ。セクシャルマイノリティであろうが同じことだ。だって自分の新しい恋人も、相手の新しい恋人も、いつかそれによって辛い思いをする。それなら、すべてを断ち切る覚悟を別れるときにすべきだ、というのが私の持論だ。業界全体がだらしない感じになるのは嫌だなと常日頃思う。それでも、人の弱さは罪ではない。誰とどういう付き合いをしようが個人の自由だ。だが、せめてマーキング行為を「友情」と呼ばないでほしい。私とも友人である以上、友人という言葉をおかしなものにしないでほしい。


追記でみっつ。友だちの友だちは皆友だち的思考。「友人や恋人の友人=自分の友人」と思っている人には、あまり人を紹介したくないし、されたくない。同じように大切に思うことについてではない。大切な人の大切な人は、自分にとっても大切な人といった考えは素敵だと思う。また、どのような経緯で知り合ったにせよ、誰とでも友人にはなれる。不可解なのは、個人として友人になるプロセスをふまずに、紹介された瞬間自分の友人であると勘違いしてしまう場合だ。知り合いと友人の境界線がないというか。そんなときは、自分が紹介する側でもされる側でも、ばつが悪い。この後味の悪さはなんだろうとよく思っていた。自分はとても了見が狭いのではないかと悩んだこともあったが(実際そうなのかもしれないが)、思い返せば根本には必ずこれがあった。個人対個人が、分り合うこと、話し合うこと、助け合うことなどを経て友人になるのだ。その過程は他の誰でもない私のものだ。その過程さえ「おまえのものは俺のもの」といったジャイアニズムで押し通すのはいかがなものか。これには、酒が入って気が大きくなっているとか、馴れ馴れしく接してしまいがちな人とか、コミュニケーションの得手、不得手は含まれない。本気で勘違いしている場合に持つばつの悪さだ。


年が明け、私を大切に思ってくれている人がいるんだなあと、何度も感動させたれた。家に引きこもっていても、多くの人が案じてくれている。勝手に日記を読んで励みにさせてもらっている人もたくさんいる。私はそれを忘れちゃいけない。なのに、なぜこんなこと書いているかというと、吐き出さなければ頭から離れないようなので。もう何年持ち歩いた。いい加減いいだろう。人と関われば、有り難さや感動と同じくらい哀しいこともがっかりもある。それはあたりまえのことだ。だからこそ、私を大切にしてくれる人たちを、支えてくれる人たちを、感謝すべき人たちをいつも忘れずにいたいと思う。