もやもや

ずっと付きまとうもやもやは、なんなんだろう。私の中にいつも大前提としてあるのは、人は自分で思う範囲の全てを正確に他者に理解してもらう必要はなく、自然にあるがまま受け取られればいいと思っているということ。事実は事実としてただそこにあって、良いも悪いもないただそれだけだということ。この二つが分かっていれば、悩むこともむやもやすることもないはずなのに、何故付きまとう。それらを分かったふうでいて受入れてないのか、あるいはそこになにか特別な、もしくは例外となる気持ちが存在するのか。


もやもやを相談すれば、「他人には勘違いさせておけばいい」と言われてしまう。そう言いながら誰よりも人目を気にするのに。「理解される必要はない」それは都合の良い言葉に聞こえる。本当のところは、「知られたくない」そこにあるとしたら。もしそうなら、私のもやもやの原因はそれだ。意図的にではないにせよ、自分の心理を隠すため私が盾になっている。たったそれだけのことを、何度試みても上手く伝えられない。どうしても不穏な空気になってしまう。それは私が望みすぎだからだろうか。


私は個人の時間の使い方について全く干渉しない。友人と過ごそうが、学業に励もうが、労働に勤しもうが、家族で団欒しようが、趣味に没頭しようが、恋愛にのめり込もうが。それは個人の自由だ。私が口を挟むべきことではない。束縛もしなければ、常にべったりいたいとも思わない。怒ることもしなければ、嫉妬もしない。自分の要求は口に出さない。何事も断らない。その結果がこの日々だ。それを誰が知るだろう。私という人間を、私の考え方を、私の理性を、私の道徳を、誰が知るだろう。知るわけがない。知りもしないで、周囲に言われるのだ好きなことを。それをただの出来事として受け止めなければならないだろうか。私のことなど知る由もない、それで当たり前だから。何も言わずとも分かってくれた人たちに囲まれていた時代を思い出す。それがどれだけ幸せなことだったかよくわかる。


いや違う問題はそこじゃない。それを知らない人じゃなく、知っている人の話だ。無意識に私を盾とし、それに甘んじることだ。また繰り返すのだろうか。また、一番近しい人の自己顕示欲と戦い、そして負けるのだろうか。どうしても、私の存在がこれに勝つことができない。はなから勝てるはずのないものだと、諦めるべきなのか。これは私の考え方で、その人はその人だ。「大切なのは、違いを受け入れ認めること」。いつもいろいろな人に言われる。何度復唱しても、これが上手く考えきれない。違いを受け入れるってどういうことだろう。我慢して、受け入れた気になることはできるけどそれは違うような。あー混乱してきた。愚痴りたいわけじゃなくて解決したいんだけどな。そうだ、前話したときに、私の物言いは断定的過ぎて不愉快と言っていた。可能性のつとつとして「いち意見」にすれば、まだ落ち着いて聞けるらしい。気をつけよう。