身近な人の幸せを

とにかく先進国の現状をハイソウデスカって言うのは思うのは難しくて、じゃぁ具体的に何をって時に、それでもやっぱり身近な家族の恋人の友人の知人の幸せからって答えは一番多く聞くし、私自身何度も何度もそこに戻る。きっと原点だし間違ってないだろうし、そもそもこれが間違いって言い放てるものなんてなかなかないんだけど。でもじゃぁその方向でって納得できるほどの答えじゃない。で、いつもみたいに振り返ろうとすると、生き物では同種で食い合うのも合わないのもいるけど、人は領土を広げるための殺し合いって元々やってるんじゃないかなと。それは家族や国的なものが安泰なら他は知らねってことで、それがやっぱり普通だったんだと思った。なのに何故、当たり前のことが気持ちよく聞けないんだろうと何年も考えて、偽善っぷりが違うのかなと思う。

勝ち負けによって貧富のさが生まれる。貧富の差をなくそうなくそうと口先だけで言う先進国のやつらは、総人類がこんな生活をしたら余裕で地球が壊れるわけだが、差をなくした時に、自分の水準がある程度まで落ちる覚悟はあるの?そんなこと思いもしないで、ひどい、可哀相って連呼されても何その上から目線。さぞ楽しいでしょうね人を哀れむ優越感といったらって話ですよ。目の前の人から搾取している。目の前の生き物を殺して食っている。その辺を見ないように見ないようにしながら、善良な顔で生きてるから違和感を感じる。善悪なんてないんだけど、その辺を見ようとしないし認められないのに、口から出る言葉は偽善的で、突っ込んで話せばだって家族の幸せがーと口をそろえる。一つ一つは当たり前のことなのに、組み合わせるから違和感があったんだ。家族を大切にすることは、自分の偽善の言い訳ではない。自分の家族を幸せにするために、どれだけの犠牲を強いているのかって理解がないから、その幸せは非常に軽いし陳腐だし果てがない。

昔、家畜の解体を見てみたいと言ったら、女子どもは見るべきじゃないと、全然家畜とは関係ない第三者に言われた。はぁ?って思った。食ってるくせに可哀相。そういう意識が全部に共通してて、狂ってるんだと思う。本気で憂うなら食うなと。毎日毎日肉ばっか食らってるくせに、鯨が可哀相とか言うなと。対人でも同じ。途上国の子の首根っこ掴んで、あんたがそれを買うならこの子を殺さなきゃならない。って目の前で言えば、「それほど必要なものでもないんで」って誰でも辞退すると思う。でも見えないからやってしまう。だから何かって言うと、私だって顔の見える家族や友人が一番大事で、その人たちのためならなんだってできる気がするし、反対に例えばいわゆる英雄と呼ばれるような人でもが家族を泣かせてるなら、それはなんだかなぁと思うし。でもその人を笑わせるために、捨てたものを知っていたい。こういう言い方をすると、誰かのために(自分が自分のための)何かを犠牲にしたって意味のが多く使われるけど、そっちじゃねぇ。まずその認識さえあれば、無駄な贅沢やとんちんかんな発言や偽善者はずっと減ると思う。

身近な人との繋がりは大事にしたいし、いやかなりしている方だと思うけれど、日々の振る舞いの中で反省は非常にあるし、でもそれとは別にそればっかり見ている人間にはなりたくないし、逆に時事とか大人の顔で知ったかぶってこ難しく話す割りに中身がカラッポなヤツにもなりたくない。外側しか見れない語れないやつにはならない。マネーの節約とか美容とかのどうでもいい価値基準でしか測れないやつにもなんない。結局身近な人の幸せとひとことに言っても、家族のためになんとしてでも生きなければっていうのと、これを買うとこの子が死ぬけど、家族が欲しがってるからいっかーというのは同列で語れる話ではないわけで、でも同じように話す人が多すぎるからモヤモヤするのだ。その辺の境目が未だ微妙な自分にもイライラする。