他所様の目という滑稽

三十路目前にして何となく分かった。単純な答えだったにも関わらず、ここにたどり着くのにどれだけの文字を書いたんだろうと思うと、いつもながら遠回り。思い返せば、幼い頃から似たようなことを繰り返し言っていた割りに、自分自身に上手く説明できず、いつだって漠然とした嫌悪感だけを持ち歩いてきた。人に対して潔癖すぎるといつも言われた。自覚はあるけれど、それにしても人間は本来綺麗だなんて思っていないくせに、何故そうなってしまうのか分からなかった。誰にでも生理的に受け付けないものの一つや二つあるだろうが、私の場合それが内側に偏っているんだろう。状況は色々違っても、私が嫌悪していることは基本的にはいつでも同じことだ。「自分像のために振舞う」こと。

満員のバスに乗ってきた老人がいた。単純に座って欲しいと思い席を譲る人、本人もしくは周りの目が気になって席を譲る人、席を譲ることができる人間だとアピールするため席を譲る人、三者は同じ行動をとりながら、根本が全く違う。誰かに優しくすること、優しい自分に酔うこと、優しい自分を売り込むこと、優しさの見返りを求めること、全ては違うことだ。行動は同じ、結果も同じ、違うのは動機。それが気にならない人もいるんだろう。そのほうが多いのかもしれない。何故だか私は、動機に対して非常に潔癖だ。それは動機であり、根本であり、筋であり、芯だから。それを持たずに、傍目ばかり気にして動く人は、言動に一貫性がなく、損得で動くようになり、筋を通した生き方ができないから話がかみ合わない。この辺の意識が、人と通じ合えなくて、お話にならなくて、とても生きにくかった。たくさんいる友人の中の、数少ない敬愛するヤツは、この動機が、筋が、義がちゃんとしていて、私に不愉快な思いをさせない。

人に対してポイント稼ぎをしていると思うやつは、自分がそんな価値観でしか生きていないと暴露しているようなもんだ。人を疑うやつは、本人が信用に値しない人間だって言ってるようなもんだ。私は私のルールでしか動かない。この台詞を何度言ってきたんだろう。ナルシストとは自分の容姿を過大評価しているという意味に受け取られがちだが、私は上記のような意味で使ってきた。自分の顔が好きな人のことではなく、自分ばかり可愛くて仕方なくて他人を思い遣れなくなった人間のことだ。自分を飾り立てるために水を汚すことや、間接的に殺しながら善良なふりするやつが嫌いなのも、なんでもかんでも、私の今までの幻滅も拒絶反応も、全てこんな場所からきているんだってやっと具体的に見えた。嫌いな人も映画や本も全部これが理由。人間関係はこれで全部壊れる。当たり障り無くなんてできないし、んなもんいらねー。青い頃は友人の多い自分が誇らしかった時期もあった。確かにあった。でも今更いい加減なもんなんていらんよ。要らないものは持っている必要も無い。誠実さとか優しさの話なんかじゃない。自分の哲学の話。

前にフロムの言葉を載せた時、友人から色恋の話として尋ねられ違和感を覚えたことがあった。それはきっと、私は色恋沙汰の話をしたかったからではなく、これが言いたかっただけなんだろうなと、今思った。

自分自身を“信じている”者だけが、
他人にたいして誠実になれる。


私の周りに百人の人がいれば、百通りの私像があるわけで、それでいいじゃねぇか。大体、自分でアピールする自分の性質って大抵本質とずれてるし。さばさばした人は自称さばさば系って言いませんから!ノンケは自称ノンケって言いませんから! 例えば、「私ってばこんな人なの!」と延々自己を主張しつづけ死んだのち。私という人間は、私を知る人々の記憶の中にしか存在しないというのに。葬儀の席で私の友人であった人が、もしくは勝手に友人だと思い込んでいる人物が悪気無く歪められてしまった記憶の中の私を語る。その台詞は私自身が主張してきた日々がまったく無に返るほど不本意なもので、しかし人の記憶なんてものは得てして本人にのみ都合よく曖昧なもので、そして死後の私はそこにしか存在できず。生涯かけて貫いた私のイメージが仮にあったとして、それを一瞬で壊された瞬間などを想像するとあまりの滑稽さに愉快でたまらなくなる。それでいい。ブチ壊しちまえ。反論できる口はもう無い。自己主張なんてその程度のくだらないもん。


追記 ふと思った
人の好みで、博識な人が好きとか、無知なほうが可愛いとか、雑学王が楽しいとか、自分と正反対の知識を持っている人がいいとか、そういうのをよく聞く。で、自分の場合はどうかなと考えてみた。出た答えは、人にひけらかすための知識を持っている人は嫌い。やっぱり全体的にそういうことなんだ。


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