十万のキツネ

何年経っても、会えば変わらず飲んで笑うのが友だちだと思ってたけれど、年を重ねるにつれそんな確信は幻想なんだと思い知る。お話にならなかったやつにその後興味を持つことがあるように、気の置けないやつがいつのまにか最も苦手なタイプに変身してることだってある。変わらず笑いあえるのは、勝手に作り上げた相手像じゃなくリアルなお互いを思いあってきたからだ。努力の賜物だ。私には信頼してる友人が何人かいるが、そいつらといつ会っても変わらずバカやって笑えるのは当たり前のことじゃなくて感謝すべきことだと思っている。信頼というのは、私が今も損得無しに受け入れられる、そして相手を受けれる自信。その自信はどんだけ狭き門で奇跡みたいなもんだろう。人の根本なんて変わるはずがないと思っていても、変わっていく人があんまりにも多いし、変わらないやつもまた多い。変わったのはそいつかもしれないし、私かもしれないし、実は最初から分かり合ってなんかいなかったのかもしらん。その変わった変わらないだって所詮は私の主観だ。大人になるってこういうことか? でも私だって悪い意味でいい大人なんだからそんなんじゃないはずだ。もちろん違う人間同士が何もかも分かり合うことなんてないし、必要もないが。例えばこんなとこに書いてるようなことをずっと昔から思っていても、反戦だの環境だのわざわざ人に言うことなんて多くなかった。私が変わったと思う人もいるのかもしれない。でも実際前々からこの調子だし、むしろ丸くなったんだよ多分きっと。考えてたのもバカ騒ぎしてたのも同じ自然な私だった。第三者に自己を主張する趣味はない。違うもんを見てるやつに共感される必要はない。人に主張しなかっただけ、今も別にしてないし、したくない。変わったことといえば見られても構わなくなったこと。こんなん書いてても誰かに向けて書いてるんじゃないし、誰一人読まなくても全く構わないし、誰が読んでもやっぱり全く構わない。どんなに飾り立てようが隠そうが、私は私以上にも以下にもなれないし。年とると恥ずかしいことが減ってくのだ。こうやってオバハンになってくんだろう。そんだけだ。

私は血の繋がりにも大した意味を持てない。家族は初めから本当の意味で家族じゃない。その人から産まれたからとか、産んだからとか、自分が選んだからとかどうでもいい。その人と費やした時間が、歩み寄ろうとした年月だけがその関係をつくることができる。一緒に暮らしている人が常に家族というわけでもない。一緒にいようが離れていようが家族として過ごした長さがその関係をつくる。愛され育てられている最中、幼かった頃は彼らの有り難味や考えていることなんて分からなかった。分からないと言うより、知ろうともしなかった。でも、いつの頃からか分かろうと生きてきた結果、今は家族であるのだ。逆に私を自分の娘という枠から出し、個人として認める努力をあの人たちもしたのだ。同じように私が新たに家庭を持っても、暮らしはじめることで家族になるわけじゃなく、その月日が家族って関係をじわじわとつくってくんだ。それが大事。血がつながってるとかじゃなしに、こんなに長いこと歩み寄ろうとした唯一の人だからこんなに大切だ。あの人たちの中ではきっと私は未だチャラっとした若者で、それは私がなかなか良い娘面を上手くできんせいだけど、昔からこんな風に思っていたなんてことにいつか気付くんだろうか。

持続ってのはうっかりしちゃってるもんじゃなくて、意思が働くから持続なのだ。長年曲げないその意思がいつのまにか大切なもんになるんだ。


「おれの目からみると、あんたはまだ、いまじゃ、ほかの十万もの男の子とべつに変わりない男の子なのさ。だからおれは、あんたがいなくたっていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくてもいいんだ。 あんたの目から見ると、おれはほかの十万のキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたがおれを飼いならすと、おれたちはもうおたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたはおれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれはあんたにとって、かけがえのないものになるんだよ……」